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祭魚ブログ

漫画などを中心に考えたことをぼちぼち書いていきます。

いまさらセカイ系を考える 其の二

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いまさらセカイ系を考える 其の二

いまさらセカイ系を考える 其の一
とは切り口を変えて考えてみます。

主人公の内面や「ぼくときみ」の関係性の問題が、社会などの中間項を挟むことなく世界の危機のような大きな問題に直結してしまうのがセカイ系の物語だとして、それを作劇という観点から検討してみます。

メインプロットとサブプロットという言葉があります。
メインプロットとは、主人公たちが価値あるモノを勝ち取ったり、敵を打ち負かしたりするような「事件の解決」の物語。
サププロットとは、登場人物の心の問題を解きほぐしたり、対立する他者との和解を描いたりするような「葛藤の解消」の物語。
そして、メインプロットとサブプロットを有機的に関連させながら結末において両方が解消するような物語を作る、というのが教科書的な作劇手法とされています。
例えば、ソリの合わない若手の刑事と古株の刑事とが衝突しながら捜査を進めるうちに、互いを理解し認め合うようになって、最後には協力して難事件を解決する、というバディもののテンプレ的ストーリーを思い浮かべてみれば、それがメインプロットとサブプロットの組み合わせでできていることがわかると思います。

ところが、メインプロットとサブプロットとの「有機的な連関」というのがなかなか難しいわけです。
出来の悪いストーリーではその連関に必然性が感じられないために、危機的な状況にあるはずのメインプロットを一旦停止させて、それと関係ない人間関係や内面の問題をウジウジとやりだすように見えてしまい、観客を却って苛立たせるということが起こります。

その点、セカイ系の物語はメインプロットとサブプロットとを直結させてしまうわけですから安直といえば安直ですが、ある種コロンブスの卵的な発想の転換があるとも言えます。
世界の危機というメインプロットと「きみとぼく」の関係性というサブプロットを直結させるために、セカイ系の物語は、SFやファンタジーに属する非現実的な設定を必要とします。
そして似たパターンの作品がいくつも作られるうちにその安直さが鼻に付くようになってくるのもまた、セカイ系にとって必然的な成り行きなのかもしれません。

こうして作劇という観点からセカイ系を見ると、問題なのは、主人公とセカイをつなげる社会領域の欠如というより、両者をつなげる自然なストーリー上の連関の欠如ということになります。まあ、主人公とセカイとがつながる過程を、超自然的要素を抜きにして物語として丁寧に描けばそれが社会領域なのだ、という言い方はできると思いますが。

「エヴァンゲリオン」でセカイ系の作品に大きな影響を与えた庵野秀明監督が、今度は登場人物の内面や人間関係の問題をギリギリまで削り落とすことで『シン・ゴジラ』の物語を作ったということは、対比として興味深く感じます。

「シン・ゴジラ」の感想

いまさら日常系を考える

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