ある作品を見るとき、最初は気がつかなかった別の解釈が可能だと後からわかることがあります。
それは独特の楽しさを持つ体験ではありますが、そのせいで新しい解釈の方が優れた解釈であるとか、作品の本当の意味なのだとか思ってしまう傾向性が人間にはあるようです。
例えばAとBの二種類の解釈が可能なとき、どちらの解釈が先に来るかによって「本当の意味」が変わってしまっていいのかとか、人によって解釈の前後が違うかもしれないのに優劣を決められるのか、というような状況も考えられるわけです。
このような心理的な傾向を利用して、新奇な解釈を提示してそれこそが優れた解釈であるかのように語る批評には注意が必要でしょう。
また、多様な解釈ができることを無条件に良いことのように語ることも怪しむべきでしょう。
例えば、"X"という記号は、あらゆる文字や記号のいずれかひとつ(空白を含む)として解釈でき、"n"という記号は次に置かれた記号が1以上の任意の数だけ並んでいると解釈できる、と約束します。
そうすると、"nX"と書けば無限の解釈が可能で、過去から未来に書かれるあらゆる文芸を内に含みつつ、それを超える多様性をも持つことになります。
しかし、明らかにこの"nX"が持つ多様性なるものは貧しいものです。情報量ゼロですから。
複数の解釈が可能であることは我々に喜びを与えることが確かにありますが、その条件についてはもっと検討が必要でしょう。