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祭魚ブログ

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『マンガ視覚文化論』 夏目房之介「『表現論』から二十年」

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『マンガ視覚文化論』 夏目房之介「『表現論』から二十年」



『マンガ視覚文化論』という本を入手したので少しずつ読んでいます。
とりあえず夏目房之介の「『表現論』から二十年」の感想を。

この論文で江戸時代(1779年)に刊行された『天狗通』という手品のハウツー本が引用されているのですが、そこにあるコマ割りされたマンガのような図が興味深い。
これは単に時系列順に「一枚絵」を並べただけのものとは違って、現代のマンガのコマに似た印象を与えるものになっています。
しかし『天狗通』に見られるようなコマの表現は、当時は物語を語るために使われることはなかったそうです。

山本陽子『絵巻の図像学』では、江戸時代の大衆娯楽の中でコマという手法があまり使われなかった理由として、コマ表現が子供や無学の者のためのものとして低く見られていたという理由が挙げられています。(コマを使った表現は、説話のような宗教性の強い題材に用いるものという観念もあったようです。)

これを読んでいろいろ考えてみたのですが、『天狗通』で現代的とも言えるコマ表現が使われているのは、やはりその必要があったからなのでしょうね。
つまり『天狗通』が読者に伝えなければいけない動作は、手品であるというその性質上、読者にとって見慣れないものであり、また想像もつきにくいものであるわけです。そのために図をコマで割って詳細に描く必要があり、結果としてまるで現代のマンガのようなコマ表現になってしまったのでしょう。

「見巧者」がコマを必要としないのは、不足する情報を経験によって補って見ることができるからで、初めて見る(説明される)手品の動作にこれは通用しません。
『天狗通』で描かれている、「見慣れない、未だ名付けられていない動作」への視線は、テプフェールの「無意味」への視線に、結果として似てしまったのではないでしょうか。

天狗通的な(あるいはテプフェール的な)コマ表現は、動作や運動の「写生」を可能にします。
譬喩的に言えば、旧来の方法では決められた「画題」としてしか動作や運動を描けないということです。
それに対して、動作や運動をコマによって分節することで、その個別性を描くことができることになります。あるいは動作や運動の一回性を描けるとも言えるでしょう。

個別的な運動を描けるということは、個別的な運動の主体である「個人」を描けるということにつながります。また個別的で一回性の運動の累積でしかないような、近代的な世界像を描けます(≒「無意味への視線」)。
類型的な動作の組み合わせで出来ているのが前近代的な物語だとしたら、それを越えるような近代的な物語が可能になるわけです。

江戸時代に現代のマンガのコマ表現に極めて近いものがありながら、それが物語表現に用いられることがなかったのは、個別的な動作や運動を描いて物語るという方法がまだ「発見」されていなかったということかもしれません。


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