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士郎正宗『攻殻機動隊』

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士郎正宗『攻殻機動隊』

1989年の作品なので、もう古い作品になってしまいましたね。
最近、ハリウッドでスカーレット・ヨハンソン主演で実写映画化されましたが、評判は今一つのようでまだ観てません。
アニメ版と対比してよく語られていますが、原作の漫画はあまり話題に挙がらないのが寂しいので、今更ですが少しこの作品について書いてみることにしました。


◆漫画版とアニメ版ではテーマが違う
原作漫画版の『攻殻機動隊』の特徴は、世界に明確な境界線などなく相対的であるということを前提としてる点です。
「攻殻機動隊」とは、全身を機械化したり、精神をコンピュータ・ネットワークに接続したりすることが可能になった世界で、人間とは何か、人間と機械はどう違うのかを追求する哲学的テーマを持った作品であるとよく語られるのですが、それはアニメ版のことであって原作では違います。

機械の体と人間の心との間で葛藤が起こるというのは、むしろサイボーグ(およびアンドロイド)作品では昔からあるテーマです。
そういう作品では、サイボーグである=特別な存在であるということで、人がサイボーグになるには絶対的な理由があります。例えば、大怪我をして治療の方法がサイボーグ化しかないとか、ある重大な目的を成し遂げるにはサイボーグになるしかないとか、悪の組織に捕まって無理やり改造されてしまうとか、そういうことです。

『攻殻』の世界ではサイボーグ技術は一般化していて、サイボーグであることは特別な存在であることを意味しません。機械の身体を作中では「義体」と呼びますが、これは全身を機械に置き換えてしまうことも「義手」「義足」「義眼」などの延長と捉えることができるという主張を含んでいるのでしょう。(言うまでもなく、身体を機械化することで人間と機械の境界が曖昧になる、という観点の持つ問題点がそこで浮かび上がります。)
主人公の草薙素子の義体は最先端の技術で作られた最高性能を持つものなので、特別なものではありますが、その特別さは相対的なものに留まります。

◆攻殻機動隊で描かれるテクノロジー観の現代性
素子が全身義体化した個人的な理由は作中では語られていません。
作中で語られる人が義体化する動機は、より便利(効率的)であるとか、より快適である(「電脳FUCK」なるものの描写がある)といったことで、いわば相対的な理由です。
これはテクノロジーの広まり方の描き方として、まったく現代的です。

メディア機器の普及ではゲームやポルノなどの果たす役割が無視できないと言われます。つまり現代のテクノロジーの広まりは、それによって得られる快楽と結びついているわけです。
また、作中で義体化していないトグサに対して義体化のメリットが色々と語られる場面がありますが、あるテクノロジーを受け入れないと、そのテクノロジーの恩恵をすで受けている周囲の人間と比べて相対的に不利になってしまうという事態がそこにあります。これもテクノロジーの広がりを後押しする要因です。

テクノロジーの広まりへの抵抗も描かれています。
電脳医師に自分の脳を弄られたくないが、電脳化しないデメリットを埋めるために両手をサイボーグ化して高速でキーボードを叩く年配の人物が登場します。
これが技術的にありうるかどうかと言うよりも、テクノロジーへの微妙な抵抗感という心理を描いていることがとても面白い。
現実にも、PCが普及するとPC嫌い、携帯電話が普及すると携帯嫌い、スマホならスマホ嫌いが現れました。インターネットが一般化しはじめた時期には、Eメールで要件を済ませるなんてけしからんと言っていた人がいましたし、メールは使ってもツイッターは嫌い、LINEは嫌いという人も少なからずいます。
新技術に対する微妙な抵抗感。
良い悪いではなく人間とはそういうものなんですね。
スマホ嫌いだけどPCのキーボードは高級品を使ってこだわるとか、それも人間の面白さです。

我々はしばしばテクノロジーをなし崩しに受け入れ、後からそれによって自分たちが変わってしまったことを自覚します。

素子が友人との雑談で、自分はもう死んでいて今の自分は作り物の人格なのではないかと思うことがある、と発言する場面があります。
これは古典的なサイボーグ/アンドロイドのテーマで、『ブレードランナー』的なテーマと言ってもいいですが、これは作品全体の大きなテーマではありません。
士郎正宗にとって、これは余談として語られる程度の小さな話題であって、フチコマにそれほど人間と区別がつかないならそれは人間なのだ、とコメントさせてあっさり終わりにしています。士郎正宗にとってはもう結論の出ている問題なのでしょう。
おそらく人間と機械の境界線なんて無いし、無くても別に困らないというのが彼の世界観です。

『攻殻』は『ブレードランナー』的と言うよりは、むしろ『ニューロマンサー』的と言うべきでしょう。
ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』(原著1984年)では、ファッション感覚で身体改造をする人々(=サイバーパンク)が登場します。サイボーグであることが葛藤を生むことではなくなった世界がすでに描かれています。加えて言えば、人形使いの正体が人工知能という設定も、ニューロマンサーに登場する人工知能を意識していると思われます。

◆森羅万象にゴーストはある
欄外の余白に、士郎正宗は「僕はあらゆる森羅万象にゴーストはあると思っている。」とコメントしています。つまり原作の『攻殻』は、人間にはゴーストがあるけれど機械にはゴーストはない、というような世界観ではないのです。
人間のゴーストと機械のゴーストとで違いはあるでしょうが、それは相対的な差に過ぎません。作中では人間より上位の存在も示唆され、それが天使のようなイメージで表象されています。
小さなものはより大きな全体の一部であり、単純なものはより複雑な全体の一部であり、それぞれのレベルに応じたゴーストが存在する。これは士郎正宗が他の作品でも描いてきた、彼の哲学的宇宙観に裏打ちされています。

士郎正宗作品の登場人物は、人間とは何か、自分は何者か、といった問題を抱えて自分の内面に沈潜することはありません。内面をいくらほじくり返しても、そこには答えはないと考えているからでしょう。彼にはその種の哲学はありません。
彼が描くのは、組織(社会)と人間、テクノロジーと人間、宇宙と人間の関係です。その関係によって人間は規定され、その関係が変化すれば人間も変化します。そういう人間観を持っているのです。

士郎正宗が描きたいと思っているのは、いつでも彼の宇宙観なのではないでしょうか。
哲学の世界では、宇宙論というものを天文学や物理学にほとんど譲り渡してしまっているようにみえますが、士郎正宗は漫画という表現を使って哲学的宇宙論をやりたいようです。いうなれば、それが彼の哲学なのでしょう。


◆最後に
個人的な感想としては、士郎正宗の宇宙論そのものにはあまり興味は持てません。正直に言って、独特の宇宙論が剥き出しの形で出てくる作品はいいと思えません。(あれが好きな人もいると思いますが。)
しかし、その宇宙論を背景に生まれてくる作品世界には魅力を感じます。

「攻殻機動隊」はこれまでに何度か映画化、TVアニメ化されています。そのすべてをしっかりと観ているわけではないのですが、原作のテーマを正面から描いたものはなかったようです。
押井守監督は、特に『ブレードランナー』的(あるいはP.K.ディック的)要素を原作から拾い上げて映画を作りましたが、それは押井守の個人的な資質からそうなったわけです。

それが間違っているというわけではなく、結局、誰でも自分のなかにあるテーマと響き合うものを創作しまうということなのでしょう。
そして士郎正宗の宇宙論を正面から描きたいという監督はまずいないと思われます。

しかし、原作『攻殻機動隊』にしかない魅力や、今も古びない要素があることは強調しておきます。

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