漫画などを中心に考えたことをぼちぼち書いていきます。
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このように、フレームこそは、その大きさや形態を変えることによって、現示性も線条性も自由に表現しうるマンガ文法の統辞の役割を果たすきわめて重要なものなのである。(呉智英『現代マンガの全体像』)その上で、膠着語である日本語が自立語(名詞、動詞、形容詞など)を付属語(助詞、助動詞)で繋いで文を作ることや、漢字を仮名で繋ぐ日本語の文字表記が「マンガの文法と強い類似性を持っている」と指摘しています。
もしマンガの絵を漢字に、言葉(とくに平がなの多いセリフ)をかなに、コマを構文に比することができれば、マンガの表現そのものが、日本の成り立ちに構造的に似ているということができます。(夏目房之介『マンガはなぜ面白いか』)『マンガの読み方』で打ち出した、「絵、言葉、コマ」の三元論が活かされた説明になっています。二者関係で論を進める呉説、高畑説と異なる点です。乱暴にまとめてしまうと、「絵、言葉、コマ」の三者のうち、絵と言葉が高畑説の議論に対応し、絵とコマが呉説に対応していると言えるかもしれません。
しゃべっているときにも我々は漢字を画像として思い浮かべ、それで同音異句を判別したりします。ということは、日本の言葉はもともと音と絵の交差する性格、時間と空間がすぐに交換できる性格をもっているのです。(夏目房之介『マンガはなぜ面白いか』)呉智英が「フレーム」と呼んだ、コマの工夫で現示性と線条性の両方を表せるようなマンガの構文について、音=時間と絵=空間がたやすく交換できる日本語の文字運用から説明しています。これは「日本語には漢字と仮名があるから、絵と言葉からなる漫画が盛んになった」式の単純な議論を超えた大胆な仮説です。
私はこの日本語の構造と日本マンガの特徴に何らかの関係がつけられるだろうと思っています。日本マンガの絵と言葉の近さ(マンガの絵の記号性)、時間分節の緩さ(装飾的なコマ構成)、空白の活用(コマとコマの間の拡張解釈)といった、これまで述べてきた特徴は、いずれも時間的なものと空間的なものを即座に交換する日本語のしくみと対比することが可能なように思えるからです。(夏目房之介『マンガはなぜ面白いか』)
もちろん、日本で花開いたマンガやアニメは、このような文化伝統を学んで作られたのではありません。漫画や映画やアニメーションなど、海外や国内の先行作品の大きな影響や刺激を受けて出発したのです。(高畑勲『十二世紀のアニメーション』)過去の作品と現代の漫画やアニメをつなぐものは、直接的な影響関係というより、日本人の「文化的な好みと欲求の伝統」だと説明しています。
ひとつには、日本人が元祖の中国人以上に、文字を視覚的な〈絵〉として認識してきたことにあるのではないかと考えられます。(高畑勲『十二世紀のアニメーション』
「語り絵」が、民衆を対象にした音声による絵解き用ではなく、お話を読むことのできる識字層の楽しみのためにまず制作された。(高畑勲『十二世紀のアニメーション』)
若林は、強情である。彼は、自分の漫画のキャラクターに、当時、耳を描いていなかった。耳を描かないほうが、自分の絵のバランスには合っていると判断したのだろうが、今はよくても、いずれ、それがストーリーの足を引っ張る時がくる。それが制約になる時がやってくるのだ。なぜわかるかというと、実はぼくも、デビューからしばらく、耳を描かなかったのだ。しかしだんだん話と違和感が出てきて、それで耳を描くようになったのだ。だから耳は描いたほうがいい。妙なバランスのキャラクターは、いずれ邪魔になる。ぼくは若林に助言したが、あいつは笑って聞き流した。失礼なくらい、無視したのだ。まったく、強情なやつである。若林が自分のキャラクターに耳をつけ始めたのは、実にそれから十年もたってからだったのだ。(いしかわじゅん『漫画の時間』)私は漫画を描いた経験がないので、耳を描かないことによる不都合というのがピンときませんでした。プロの漫画家が実際に描いてみて初めて気づくような微妙なことなので、素人にはわからなくて当然なのかもしれません。