伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』で使われた「マンガのおばけ」と「ウサギのおばけ」という用語についての以前の記事で、あるキャラクターを描いた図像の背後にそのキャラクターの“本当の姿”を想定する見方と、そのようなものを想定せずに“描かれたままの姿”が全てだという見方とを、漫画の読者は都合よく使い分けて読んでいる、と書きました。
例えば『ちびまる子ちゃん』の主人公まる子の顔には鼻が描かれていませんが、そのことを指摘されれば、鼻は省略されているのだと答えるでしょう。つまりキャラクターの本当の顔を別に想定して、そこにはちゃんと鼻があるのだという論法です。
それでは、まる子の顔に鼻を書き加えればより本当の顔に近づいたように感じるかといえばそんなことはなく、漫画として描かれているあの顔こそがまる子なのだという感覚も同時に持っているわけです。
こうしたことは、特に私が指摘するまでもなく、漫画を読む人は何となく(あるいははっきりと)感じ取っていると思います。
しかし、この解釈の使い分けもいつでもうまく行くわけではありません。
絵のスタイルが写実的である場合、この問題はあまり意識されないでしょう。逆に、写実的ではない(こう言ってよければ、漫画的な)スタイルで描かれるとき、問題が生じることがあるようです。
いしかわじゅんが、著書『漫画の時間』で漫画家若林健次について書いた文章の中に、昔から気になっている一節があります。
若林は、強情である。彼は、自分の漫画のキャラクターに、当時、耳を描いていなかった。耳を描かないほうが、自分の絵のバランスには合っていると判断したのだろうが、今はよくても、いずれ、それがストーリーの足を引っ張る時がくる。それが制約になる時がやってくるのだ。なぜわかるかというと、実はぼくも、デビューからしばらく、耳を描かなかったのだ。しかしだんだん話と違和感が出てきて、それで耳を描くようになったのだ。だから耳は描いたほうがいい。妙なバランスのキャラクターは、いずれ邪魔になる。ぼくは若林に助言したが、あいつは笑って聞き流した。失礼なくらい、無視したのだ。まったく、強情なやつである。若林が自分のキャラクターに耳をつけ始めたのは、実にそれから十年もたってからだったのだ。(いしかわじゅん『漫画の時間』)
私は漫画を描いた経験がないので、耳を描かないことによる不都合というのがピンときませんでした。プロの漫画家が実際に描いてみて初めて気づくような微妙なことなので、素人にはわからなくて当然なのかもしれません。
漫画やアニメではキャラクターの目を強調して大きく描くことがよくありますが、眼鏡をかけたキャラクターの場合、不自然にならないような工夫が必要なのだそうです。コンタクトレンズのつけ外しの場面に至っては、直接描けばギャグになってしまいますから、事実上描けないと言ってもいいくらいでしょう。
おそらく、耳を省いた絵であるがゆえに描けない動作や場面にぶつかることがあるのだろうと思います。実際にはそういった場面はうまく避けながら作品作りをしていくのでしょうが、それは「制約」であり、それなら初めから耳のあるキャラクターを描いたほうが得策だと、いしかわじゅんは言っているわけです。
漫画ではリアリズムから離れて、リアリズムではできないような世界を表現できます。しかし、そのせいでうまく描けない表現上の盲点をも生んでしまうようです。
例えば漫画で好まれる題材として、擬人化された動物があります。
少し考えれば、これは非常に破綻しやすい題材だと思い至るはずです。
まず、擬人化された動物の食事を描くことが問題になります。もし描いてしまえば、人格を持った肉食獣が他の人格を持った動物を食べるカニバリズム的世界になるか、肉食獣であっても菜食主義を強いられる世界になるか、あるいは人格を持たない動物が別に存在する世界なのか、いずれにしてもある種のグロテスクです。
他にも解剖学的に動物の体はどうなっているのかなど、無粋を承知で問題点を挙げようと思えばいろいろと数え上げることができます。
これに対して、リアリズムの手法で描かれた作品なら、描けない盲点というものは存在しないはずです。描けないことがあればそれは描き手の技量不足であり、また描いた結果がグロテスク(あるいは滑稽)であればそれは現実のグロテスクさ(滑稽さ)の反映であって、破綻ではなくむしろ作品の美点とされるでしょう。
現実的な事柄であればどんなことでも破綻なく描ける。これはリアリズムの大きなアドバンテージです。
非リアリズムで描かれた作品でも、表現上の難所を厭わず描ききってしまうこともあります。その結果はグロテスクか、意図的な、あるいは意図せぬギャグになるしかないでしょう。それはそれでひとつの挑戦かもしれませんが。
もちろん、たいていの漫画では破綻を見せないように難所を回避しながら描いていくのですが、どうしても避けられないところでメタフィクション的にギャグにして凌ぐ、というやり方もしばしば見受けます。
メタフィクションには、読者にその作品自身が虚構であることを意識させることで虚構への没入を妨げる効果があるとも言われますが、これには私は少々懐疑的です。少なくとも、すべてのメタフィクション的な手法が上のような効果を持っているとは言えません。
むしろ、それが虚構であることを読者に示すことは、読者に対して一層の「不信の停止」(詩人のコールリッジの言葉だそうです)を求めることになり、読者がそれを受け入れることで作品への没入をより深めていくことは珍しくないのではないでしょうか。
「これは漫画だから…」というエクスキューズが前面に出てくることは表現上の逃げであって評価できないという批判は、当然あるでしょう。
一方で、破綻しやすいという点を漫画の特質と認め、漫画とは破綻を内に抱えた表現なのだと認めることから、そうしたエクスキューズに寛容になることもできるでしょう。私には、リアリズムへの防壁のようにメタフィクション的手法が使われている様は、興味深い事態に思われます。
ここで虚構という言葉を使いましたが、虚構という概念についてはまた改めて書いてみるつもりです。