今でも覚えていますが、中学校か高校の美術の教科書に小さな写真が載っていて、それはたしか古代オリエントの神話的な獣の像なのでした。(現行の教科書にも載っているのでしょうか?)石でできた、彫刻と浮き彫りの中間のようなもので、正面から見ると二本の前足を揃えているのですが、真横から見ると左右の足を前後に開いて四本の脚を見せるように作られています。しかし彫像ではなく、正面と側面を彫った浮き彫りなので、それを斜め前から写した写真では脚が五本見えてしまいます。
見る角度によって獣の脚が五本になってしまうのは表現の破綻なのでしょうか。
おそらく真正面か、真横かのどちらかからだけ見るのが、この獣の正しい見かたなのでしょう。斜めから見るのはルール違反です。そう、この獣には見かたのルールがあるのです。このルールを破るのは野蛮です。文化には約束事があるのです。
たとえ話をするとこうです。“文明人”は約束事を尊び、それによって文化を洗練させますが、文明の外部からやってきた“蛮族”は“文明人”の作った約束事を無視し、嘲笑います。“文明人”はそれを文化の破壊(vandalism)だと言って怒りますが、“蛮族”の嘲笑を防ぐことはできません。
世の中に文明人と蛮族とがいるという話ではありません。私たちはみな、自分の属する文化に対しては“文明人”であり、異文化に対しては“蛮族”なのです。古代の五本脚の獣を笑うとき、獣を作った古代人は“文明人”で、現代の私たちは“蛮族”です。
しかし、文化的な約束事は放っておくと肥大化していく傾向があります。自分たちの約束事を離れて、より普遍性の高い表現を目指すというのも悪い方向ではありません。
そこで表現に導入されるのが、現実性や合理性でしょう。約束事をできるだけ廃して、リアルな表現を目指すこと。それによって普遍性の高い表現を目指すわけです。
一方で、リアリズムというものにある種の“野蛮さ”を感じて、リアリズムに抵抗する動きも出てきます。花園を荒らされたような感覚とでもいいましょうか。
これは漫画でも同じで、リアリズムを支える様々な方法が導入されてきた一方で、リアリズムへの抵抗も行われてきたと思います。
リアリズムによる表現は破綻がありません。もし破綻があれば、それはリアリズムが不足していたとされるだけです。リアリズムを貫徹すれば破綻は姿を消すはずで、そこがゴール地点になります。
ここでは破綻という言葉を、ある表現がその表現自体の限界を露呈してしまうこと、という意味で使っています。
しかし、破綻というのは本当に排除すべきものなのでしょうか。破綻しやすいというのは漫画という表現の特徴とさえ言えると私は思います。
普通の彫像で獣を作れば五本足に見えることはないはずですが、では彫像という表現が破綻することもあるのでしょうか。写真は破綻するでしょうか。例えばそうした対比からも、漫画について何か知見が得られそうです。
それから、“リアリズムへの抵抗”という点もまた考えてみたいと思います。