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漫画:水準の異なる記号が混在する表現(2)

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漫画:水準の異なる記号が混在する表現(2)


 漫画では、紙面に位相や水準の異なる記号を混在させており、またそうした混在を厭わない表現だと述べました。
 ここでは記号という言葉を広い意味で使っていますが、“虚構”の概念を基準に分類してみるとこうなります。

 まずは、虚構世界に物理的にカタチをもって存在するものを写し取った(かのように読める)記号。登場人物や背景の絵などはこの水準に当たります。音声は、聴覚的な像というカタチをもちますが、漫画という視覚的なメディアでは文字というシンボル体系を利用し(しばしば形喩の助けを借りて)表現されます。触覚的、嗅覚的、味覚的な像をこの水準で表現することはほぼできないといっていいでしょう。
 次に、虚構世界に存在するが物理的なカタチをもたないもの、例えばその場の雰囲気や人物の心情などを表す記号。形喩やスクリーントーンを利用して表現したり、擬態語的な書き文字を利用したり、登場人物の内心を言葉で表したりすることが典型と言えます。
 そして、虚構世界の内部には存在しないものを表す記号があります。作品タイトルのロゴ、コマ枠線、吹き出しの枠線などがこの水準に当たります。

 コマ枠線や吹き出しの枠線のような境界線は記号の水準の違いを明示するために引かれますが、漫画の紙面には様々な性質の異なる記号が描き込まれており、それらすべてについて境界を明示することはとても不可能です。
 主として、コマ枠線は時間的水準の違いを明示し、吹き出しの枠線は言葉と絵との境界を明示するものですが、それら水準の異なる記号の間に必ず境界線を引かなければならないというわけではありません。例えば、一つのコマの中に異時同図的表現が含まれることもありますし、吹き出し枠線なしに登場人物の台詞が書き込まれることもあります。そうした場合でも、読者の読みを誘導するような工夫はなされます。同じコマで左右に並んだ人物が発言していれば、右の人物が先に発言したと見做されますし、吹き出し枠線がなくても誰の発言なのかわかる位置に台詞は書き込まれます。
 境界線は読者の読みを助ける多様な手段の中の一つなのです。
 映画のフィルムのコマが24分の1秒ごとに映像を切り取っていくのと、漫画のコマの時間の切り取り方との間に大きな違いがあるのは、既に多くの論者の指摘するところですが、この点に関係する問題です。

 さて、コマ枠線は時間的水準の境界を示すのが主たる用法ですが、ただの線でしかない以上、どのような種類の境界を示すのに用いても構わないわけです。例えば、コマ枠線が空間的水準の境界を示すこともよくあります。向かい合った二人の人物をそれぞれ別のコマ枠線の中に配置することで、どちらも読者に対し正面を向いた顔を描くことができます。
 しかし、コマの配置によって読者はどうしても時間的な前後関係を読み取ってしまいます。そこで、あえて時間的前後を確定させないようなコマの配置の工夫がなされることがあり、「表現論」の立場から検討がなされています。ただし、これは「コマ panel」の問題であって、「コマ枠線」の問題とは一応区別すべきでしょう。

 コマからはみ出して、コマの上に重なるように大きくキャラクターが描かれる、いわゆる「ぶち抜き」という表現もあります。この表現が受け入れられているのは、図像の輪郭線が境界線として強力に働くことを示しています。「ぶち抜き」の表現では、キャラクターの輪郭線がコマ枠線と同じ機能を果たしている、あるいは読者が輪郭線に重なる(仮想の)コマ枠線を読み取っていると言ってもいいかもしれません。

 さらに、登場人物が間白を棒のようにして掴まったり、あからさまにその存在に言及したりする表現もあります。こうしたメタフィクション的な表現が漫画の約束事を侵犯するものでありながら、同時に漫画的だとみなされるのは、異質な記号が混在することを厭わないという漫画の持つ大きな特徴が元になっているのでしょう。漫画は良くも悪くも“破綻”しやすい表現なのだとも換言できます。

 漫画に書かれる文字についてもう少し考えてみます。
 文字は、境界線で囲まれている場合も、そうでない場合もありますが、線で囲まれていない場合、その位置づけは最も不確定となり、物理的な音声である登場人物の発声や環境音かもしれないし、登場人物の内心の声かもしれないし、ナレーションのような虚構外の声かもしれません(あるいは「背後の壁に書かれた文字」なのかもしれません…)。
 文字は線で囲まれることで、その記号としての位置づけが限定されます。囲み線の形態によって、実際の発声、内心の声、ナレーションなどと区別できるコードが存在することは、既に多く指摘されており、また漫画読者もよく理解するところです。風船型のものは吹き出しと呼ばれ、四角形の囲みはナレーションないし何者かの内心の言葉と解されます。しかし、吹き出しと四角形の囲みの違いは何なのでしょうか?

 コマ枠線と同様、吹き出しなどの文字を囲む線もただの線ですから、どんなものを囲むこともできます。吹き出しの中に図像が描かれることがある、というのも今さら新しい指摘とは言えませんが、このことの意味を考えてみます。
 普通、吹き出しの中に描かれた図像は、ある人物が心に描いた像と解されます。「ある人物が」というのが実は要点で、吹き出しは原則として何者かに紐付けられる記号です。
 それではナレーションを囲むような四角形の囲みの中に図像を描くことはできるかというと、これは難しい。言葉の脇に小さな図像や汗などの形喩を添える程度なら何とかできますが、その場合はその言葉を発する声の持ち主が抱いた心像として紐付けられるでしょう。
 吹き出しの中に図像だけを描いても成立しますが、四角形の囲みの中に図像だけを描くことはできません。それはもはやコマと区別がつかないからです。逆に、図像がなく言葉だけが書かれたコマを考えると、ナレーションを囲む四角の枠との区別はまったく曖昧です。

 ここから、漫画の約束事の中で、(コマ枠線を含む)四角形の囲み線が持つ特別な役割が見えてきます。吹き出しと異なり、四角形の囲みはその内部の言葉なり図像なりに紐付けるべき人物が“虚構”内に存在しないことを意味します。
 そしてコマ枠線も同じ水準で位置づけることができ、その紐付け先は「作者」あるいは「語り手=描き手」です。
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