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漫画とその周辺文化(1) フィギュアとドール

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漫画とその周辺文化(1) フィギュアとドール


 以前テレビ番組で、美少女キャラクターのフィギュアを愛好する「オタク」が登場するコント(なのかな?)を目にしたことがあるのですが、そこで「オタク」を演じる人物は終始、手にフィギュアを持って歩いていました。
 しかしフィギュアが好きな「オタク」は、おそらく現実にはそんなことはあまりしないでしょう。フィギュアをぶつけたり落としたりして破損する、あるいは部品が床に脱落して紛失する、また落とした部品を誰かに踏まれるおそれがあるので、大切なフィギュアを意味もなく手に持って歩きたくはないのが普通だと思います。そうした問題を別にしても、フィギュアとは棚にでも飾って眺めて楽しむものであって、手にとって楽しむものではないのです。

 これをテレビ番組の無理解として批判する意図はありません。フィギュアとドール(人形)の関係を考える取り掛かりとして、興味深く感じたため取りあげたのです。

 人形には様々なものがありますが、布の服を着て、髪は植毛かウィッグ(かつら)で、関節の動くものは、フィギュアと区別してドールと呼ばれているようです。服も髪もプラスティックで、関節の動かないものがフィギュアと呼ばれています。服や髪はプラスティック製でも、関節の動くものはアクション・フィギュアと呼ばれます。アクション・フィギュアはドールとフィギュアの中間に位置すると言えるでしょう。
 これは単に素材の違いに過ぎないようにも思えますが、実はそれぞれの在り方の違いを生んでいます。

 フィギュアの服や髪はプラスティックで出来ていますから、本来は柔らかく動くものの「ある瞬間」の姿を表します。ドールのように関節は動かないので、フィギュアは特定のポーズを取ります。顔には、ポースに合わせて生き生きとした表情が与えられます。
 例えば、髪や服は風になびき、手に持った剣を構えて、緊張した表情で前を見つめるフィギュアを考えてみます。それはキャラクターのある瞬間を切り取ったもので、現実世界と切り離された固有の時間と空間を持っています。
 このことの意味は、ドールとの対比でよりはっきりと見えてきます。

 ドールは関節が動かせるため、決まったひとつのポーズを持ちません。髪や服もその素材ゆえに、フィギュアの場合のようにある瞬間を凍りつかせて表現することはありません。
 ドールの顔には、あえてはっきりとした表情をつけないということが行われます。これは、持ち主がそのときどきに人形の気持ちを想像して投影するのを邪魔しないためで、ぬいぐるみでも同じことが言われることがあります。
 また、ドールの愛好家は、季節に合わせてドールの衣裳を変えるということもよくします。
 フィギュアとは違い、ドールは固有の時間を持たず、持ち主と同じ流れる時間の中にあるものなのです。

 フィギュアは手にとって楽しむものではなく、眺めて楽しむものだというのも、この点によります。もちろん、フィギュアを手にとって細部を眺めるというようなことはあるでしょう。しかし、フィギュアは「人形遊び」には適していません。フィギュアは、現実世界とは切り離された固有の世界でのある瞬間を表象するだけで、持ち主の語りかけ・働きかけに応えることはありません。
 最初に述べたテレビ番組の制作者は、この点でドールとフィギュアを混同していたのでしょう。

 さて、フィギュアは大量に複製が製作されて販売されています。芸術という言葉を中立的に用いるなら、複製芸術と呼ぶこともできるでしょう。この点はドールも同様で、同じものが大量生産されて売られています。(フィギュアにもドールにも作家による一点ものの作品があるのと並行して、ですが。)

 そして、原則として、個々のフィギュアには個性はありません。すべて同じポーズで同じ表情をしています。どのフィギュアも、ある一人の人格を表象する記号(トークン)です。再塗装などの改造がなされる場合でも、同じキャラクターの別の瞬間を表象しているにすぎません。
 それに対してドールの場合、衣裳やウィッグ、ドールアイ(目のパーツ)等を交換してのカスタマイズが一般的に行われます。商品名とは別にドールに名前をつける例も少なくありません。ドール愛好家の意識の上では、同じ製品であっても「うちのドールと他所のドールは別の人格」であって、同じ人格の異なる側面を表象しているという意識は比較的薄いと思われます。

 アニメなどのキャラクターの、いわゆる「版権モノ」のドールも販売されています。そのキャラクターが好きで、キャラクター商品として購入した人はオリジナルの姿を尊重してあまり弄らないようですが、ドール愛好家の場合は、元のキャラクターがわからないほど手を加えてしまうことも珍しくありません。だいたいアニメなどのキャラクターは、髪型と服装で個性化されている部分が大きいので、そこを変えてしまうとなかなか同じ人物には見えません。
 逆に、ドールに、特定のキャラクターと同じ髪型と衣裳を与えることもあります。その場合は、ドールがそのキャラクターそのものになったというよりは、いわばドールによる「コスプレ」という意識に近いようです。
 これらの例もドールというものの在り方を示すものと言えるでしょう。

 以前の記事で論じた“虚構”という概念を使って考えると、フィギュアは“虚構”です。つまり、現実とは別の世界を想定して、その世界の中の何か(この場合はあるキャラクターのある瞬間の姿)を叙述するものです。
 それに対して、ドールは“虚構”として与えられたものではなく、現実世界に属する「モノ」です。言い換えると、現実世界に生きる我々人間と同じ時間と空間を共有する存在として見ているということです。
 とはいえ、ドールを“虚構”のための道具として利用することはできます。人間の世界とは別の、人形たちの「小さな世界」を想像して楽しむ人はいるでしょう。しかし、そうすることもできるということであり、またどのような世界を想定するかは各人に委ねられています。

 有名な人形の「リカちゃん」には、小学校何年生であるとか、家族構成がどうであるとか、いろいろと設定がありますが、そうした設定に拘泥するのは大人のマニアであって、人形遊びをする子供の意識はそれとは異なっているように思います。子供は「リカちゃん」の設定をそれなりに知っているかもしれません。しかし、それにはとらわれず、その時々の気分を投影して、自分の友達になったり、面倒を見るべき妹や娘になったり、憧れのお姫様やアイドルになったり、自分自身の分身となったりして、人形は空想の世界での役割を自在に変えていくものではないでしょうか。そして、それが人形の在り方の原型を示しているように思います。

 もちろん、ドールの設定に拘ることが間違っていると言うつもりはありませんし、商品としてのドールがいろいろな設定を与えられ、“虚構”化されて販売されている事実もあります。繰り返しますが、ドールには“虚構”のための道具たりうる力を持っています。しかし、必ずしも“虚構”として虚構世界に縛り付けられてはいないのです。

 さて、伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』での用語を応用すると、フィギュアの在り方は(基本的には、と留保を付けますが)「キャラクター」に相当するでしょう。「人格を持った『身体』の表象として読むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させるもの 」なのです。

 それに対して、先にフィギュアとドールの中間に位置付けたアクション・フィギュアは、「キャラ」的な存在と言えます。アクション・フィギュアは、関節を動かすことができ、頭部パーツの差し替えによって数パターンの表情を持つことができることもあり、フィギュアとは違って「ある瞬間」に縛り付けられてはいません。
 一方、ドールのように元のキャラクターが何だかわからなくなるほどのカスタマイズが施されることはあまり無いようで、「キャラ」としての同一性は保ち続けるようです。

 フィギュアが表現しているのは、元の作品で描かれた「ある瞬間」、あるいは作中で描かれなかったけれど確かに存在した(という想定が可能になるのが“虚構”ということですが)「ある瞬間」です。
 それに対して、アクション・フィギュアでは元の作品世界では決して「ありえなかった瞬間」を表現することもできてしまいます。これによって、アクション・フィギュアは元の作品世界から切り離され、「キャラ」化するのです。

 フィギュアは日常の空間の中に置かれても、まるで見えない額縁に囲われているかのように周囲と切り離された空間を作り出します。デザインされた台座が付属することも、この効果を強めているのでしょう。
 一方、アクション・フィギュアは、周囲の環境に馴染んでしまいます。「キャラ」がその場に居る、という印象を見る人に与えることができるのです。また、表情やポーズにバリエーションがあるので、比較的容易に別作品の「キャラ」と「共演」させることもできます。

 ネットで見られる愛好家によるアクション・フィギュアの写真を見ると、上述のような「キャラ」的性質をよく示す、いわば「同人誌」的な表現を認めることができます。
 『よつばと!』に登場する「ダンボー」というキャラクターのアクション・フィギュアを撮った写真がファンアートとしてよく知られていますが、写真を見る人の意識として、その「ダンボー」の中には「みうら」は入っていないでしょう(元の作品ではそういう設定なのですが)。優れて「キャラ」的な性質を示す事例です。(※)

 なお、フィギュア、ドール、アクション・フィギュアの境界は曖昧ですから、三者の区別はあくまで類型としてと考えております。ドールについてはフィギュア的なテイストを持ったものが多くなっている印象があります。

(※ よつばの想像する本物のロボットであるダンボー、いうなれば虚構内虚構の存在を表象していると解釈することもできるかもしれません。もっと煩く言うと、より小型のミニダンボーが存在するという想定が必要でしょうか。しかしそれよりは、単にダンボーという「キャラ」を表現しているだけなのだ、と考えたほうがすっきりしませんか?)
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