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漫画:水準の異なる記号が混在する表現(1)

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漫画:水準の異なる記号が混在する表現(1)


 漫画は落書きであると言われることがあります。漫画の描き手ないしは制作の現場に近い立場から謙遜のように言われることもありますし、漫画の自由さや原初的な創作のエネルギーを肯定的に評価する意図で言われることもあります。
 もちろん、私たちが普通に漫画と言って思い浮かべるような作品は文字通りの意味での落書きとは言えませんから、あくまで譬喩としての話ですが、ここを出発点に考えてみます。

 授業中に退屈のあまり教科書に絵を描けばそれは落書きですが、同じ絵をふさわしい用紙なり画布なりに描けば落書きとは言いにくくなります。額縁にでも入れれば尚更でしょう。
(現代美術の世界であれば、そのような美術の制度への批判として、教科書に描いた絵を作品として提示するというようなことも今さら珍しくもないのかもしれませんが、落書きという概念自体を殺してしまうような議論の水準はここでは採らないでおきます。)
 落書きは絵である必要はなく、文字やその他の記号であっても構いませんし、落書きの内容や出来の良し悪しも本質ではありません。相応しい場に書かれているか否がが問題なのです。例えば絵画作品における額縁は、作品に「相応しい場」を与える枠組みとして機能しています。教科書に描かれた絵は、それが教科書の本文や図版と異質なまま同じページに混在するゆえに落書きなのだと言えます。

 何が落書きで何が落書きでないかは社会的な規範によって決まると考えていいでしょう。単行本や雑誌といった枠組みを与えられた漫画は、普通の意味では落書きではありませんが、紙面に位相や水準の異なる記号を混在させているという点で落書き的ということはできます。

 漫画が絵と文字という異質な記号を混在させているという点は、漫画を取り上げる様々な議論で真っ先に取り上げられてきた特徴です。一般的に西洋の絵画作品では文字による説明は排除されてきましたし、逆に文学者たちには、読者のイメージを固定してしまう挿絵(特に具象的なもの)を歓迎しない傾向がありました。
 絵画や文学が、絵と文字の組み合わせによる表現をいっさい試みなかったとは言えませんが、それが絵物語などの周辺ジャンルと並んで漫画の大きな特徴だというのは、ここで繰り返すまでもないでしょう。

 さらに、絵といっても様々な水準のものが混在していることが指摘できます。同じ紙面に異なる水準の絵が混在することを厭わないのは、特に日本の漫画に強く見られる特徴と言えそうです。
 いわゆる「表現論」ではこの点をすでに詳細に検討しており、その成果を利用することができます。主なものを挙げてみましょう。

・「形喩」や「漫符」と名付けられた記号的表現
典型的なものとしては「汗」の記号。水滴の形をした記号は、元来は実際にそこに存在する汗の滴を描いたもの、つまり周囲の絵と同じ水準で描かれたものだったのが、登場人物の心情をシンボル的に表象する記号として拡張して利用されるようになった。こうした表現は、同じ紙面に異なる水準の記号が混在するという漫画の特徴を典型的に示す。

・図像のモードの不統一
例えば、同じ作品で簡略な絵柄で描かれる人物図像と、写実的と思わせるような絵柄で描かれる人物図像が混在すること。同じコマの中に異なるモードのキャラクターが描かれることもあれば、同じキャラクターがコマによって異なるモードで描かれることもある。

・背景とキャラクター
上で挙げた絵柄(モード)の問題とも重なるが、人物の図像と背景の絵柄の不統一。パースを無視して人物の図像が紙面上に配置されることもままあり、これも背景とキャラクターの絵の水準が異なること、それを表現として厭わないことを示している。

・異時同図
時間的水準が異なる図像を同じ紙面に描いている。コマの機能とも関連させて検討する必要がある。

 漫画に書かれる文字にも水準の違いが見られます。

 キャラクターの台詞や擬音(オノマトペ)は作品世界の内(私の用語では“虚構”)で実際に聞こえる音を表象しますが、静寂を表す「シーン」や、例えば荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』に見られる「ゴゴゴゴゴゴ」のような書き文字は、音ではなく虚構世界における雰囲気とでも言うべきものを表象しており、両者には擬音語と擬態語の違いにも似た水準の違いがあります。
 いわゆる「ナレーション」にも、作中人物による語りである場合と、虚構世界の外部の語り手(作者を思わせるような)である場合とで、水準の違いが認められます。そして、どちらの場合も虚構世界の実際の音声を表す台詞や擬音とは水準が異なります。
 さらに完全に“虚構”の外部に位置するものとして、作品タイトルのロゴや作者名の表記などがあります。昔よくあった、枠外に落書きのように書かれた作者のメッセージ(しばしば作品内容と直接関係ない)も“虚構”の外部に位置します。
 映画において“虚構”内部の音声である台詞や環境音に加えて、劇伴やナレーション、あるいはキャプションが用いられることと対比できると思います。

 これらの記号の水準の違いは、明示されることもあれば、されないまま曖昧に扱われていることもあります。水準の違いを明示するために境界線が引かれることがあり、それがコマ枠線と吹き出しの枠線です。
 次にこの問題を考えてみるつもりです。
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