『ユリイカ 2015年1月臨時増刊号 総特集◎岩明均』に掲載された泉信行「その画はどこから生まれるのか」の感想を書いてみます。
おそらく「寄生獣」のTVアニメ化・映画化に合わせた特集なのでしょうが、作品論・作家論に踏み込む準備がないので、ここでは理論的な側面の一部についてだけ触れます。
私自身の関心と重なり合うのが以下の記述です。
読者は紙上の見た目から逆算して〈見えざる実像〉をイメージする。当然、その姿は個々人によって異なるイメージに枝分かれするだろう。だが漫画の読者は、〈見えざる実像〉こそ作品の本質だと考えているフシもある。人気漫画が実写ドラマ化された際などにファン同士で議論になるのは、キャラクターにあてられた役者のビジュアルが〈見えざる実像〉のイメージと噛み合わない時であろう。読者たちだって、漫画の絵柄そのままの実写化などは不可能だと知っている。彼らが実写と比べようとしているのは、自分たちがイメージする〈見えざる実像〉となのだ。
以前、このブログで
「漫画の表現と“虚構”」という記事を書いたとき、“虚構”という言葉に「ある架空の世界を想定して、その世界についての叙述であるかのように読めるテクスト」という限定された意味を与えて論じました。一部の実験的な作品を除いて、漫画は“虚構”です。言い換えると、漫画作品が(広義の)記号だとするとその指示対象は虚構の世界ということになります。
さらに
「『テヅカ・イズ・デッド』再読(4) マンガのおばけとウサギのおばけ」という記事では、漫画に描かれた“虚構”の事物を読者がどのように解釈するかという点を検討しました。図像は“本当の姿”の代理物に過ぎないという見かたを伊藤剛の「ウサギのおばけ」概念と結びつけ、図像の背後に“本当の姿”を想定せず“ただ描かれたままの姿”として存在するものと受け止める態度を「マンガのおばけ」概念と結びつけて論じました。
上で引用した〈見えざる実像〉を巡る議論を見ると、私が論じたかったような内容がズバリと書かれていて、我が意を得た思いです。
また、漫画読者の意識が「絵自体を眺める」状態から「まるで、絵のように世界が見えてくる」状態へ変容するという指摘も、作品への没入体験をうまく言い当てているようで興味深いものです。
漫画において、絵は作品世界を中立的に描いているのではなく、その絵柄に何か主観的な傾向や歪みのようなもの(泉信行の言葉では〈絵の意識〉)を含みつつ描かれているとまず捉えます。読者はまず、そのように描かれた「絵自体を眺める」わけです。
そして読者はやがて〈絵の意識〉と寄り添い、絵柄に含まれる主観性と同調して漫画を見るようになります。私の理解では、〈絵の意識〉とは虚構世界を眺めるある架構の人格です。読者は、その人格が主観的な偏りをもって世界を見ているのと同化して作品世界を見ているような意識になるのが、「まるで、絵のように世界が見えてくる」ということです。
〈絵の意識〉という概念は、文学理論でいう「語り手 narrator」と対比して捉えることができそうです。それが持つ主観性を言い当てるために「人格」という言葉を使いましたが、「装置」といってもいいかもしれません。〈絵の意識〉も「語り手」も虚構世界の外部に位置すると考えられます。虚構世界の内部の誰かの視点として描くこともできますが、それに拘束されるわけではありません。
〈絵の意識〉概念は、さらに掘り下げていくと面白いものを含んでいそうです。
最後に、ここで語られなかったことについて私なりに考えてみます。
確かに私たちは絵の背後に〈見えざる実像〉をイメージしながら漫画を読んでいるのは事実なのですが、そうでない側面もあり、そこに光を当ててみたいのです。
例えば、文中に「読者たちだって、漫画の絵柄そのままの実写化などは不可能だと知っている」とありますが、それゆえにある作品の実写化そのものを拒絶する読者も存在するわけです。一部のマニアの拘泥と切って捨てることもできますが、それも作品没入のひとつのあり方と考えることもできます。
以前に「マンガのおばけ」という概念について、「あるキャラクターを描いた様々な図像が、“本当の姿”という一点に焦点を結ぶことなく、しかし同一性を保持している」と私は書きました。それでは、そのような場合の作品への没入のモデルも考えられるのか、今後、検討してみたいと思います。
泉信行氏のブログ
ピアノファイア
『ユリイカ』岩明均総特集号の拙稿「その画はどこから生まれているのか」(泉信行)の要旨と概論