『テヅカ・イズ・デッド』の新書版が星海社から出ていますね。
新たに新書版あとがきが付されていますが、「ウェブ上の言説の場がブログからツイッターなどのSNSや動画配信などに移り、ひとびとの『ことば』が断片化していくなかで、小さな『ぼくら』たちが林立し、お互いの存在を意識せずに済む状況が進んでいった」という箇所は、確かにそういう面はあると思いました。
さて、前回の記事で私は、「キャラ」は図像の間でタイプ=トークン関係が成立することで成り立つと書きました。「キャラ」とは未だ指示対象ないし意味を持たない記号であり、「キャラクター」が記号だとすれば、「キャラ」は記号以前の記号とでも呼ぶべき存在かもしれません。
伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド』において、記号以前の記号である「キャラ」の持つ性質に「プロトキャラクター性」と名を与えています。
ところで、伊藤による「キャラクター」の定義は次のとおりです。
「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの(『テヅカ・イズ・デッド』)
「キャラクター」が、「人格」を持った「身体」の表象であるならば、逆に言えば「キャラクター」という記号の指示対象は「人格」を持った「身体」ということになります。
「キャラ」は、そのような水準で言うならば指示対象を持ちませんが、複数の図像の中からキャラとしての同一性を認識させるだけの個性を持っている必要があります。「キャラ」の持つその個性のようなものが「プロトキャラクター性」であり、キャラの「存在感」という言葉もほぼ同じ意味で使われているようです。
意味を持たない記号としての「キャラ」の持つ意味内容をあえて問えば、それは「プロトキャラクター性」であるという言い方もできるかもしれません。
あえて図式化すると以下の通り。
キャラクターという記号の内容 =「人格を持った身体」
キャラという記号の内容 =「プロトキャラクター性」