キャラクターとは記号であるとよく言われます。そして記号という言葉は、論者によって、文脈によって、いろいろな意味で使われるので、よく吟味する必要があるでしょう。
記号学には、タイプとトークンという用語があります。
アルファベットのAという文字を例に取ると、手書きであれ活字の印刷であれ、それぞれのAという文字は使用されるごとに一文字ずつそれぞれ別のものだという捉え方と、それらは全て同じAという文字だという捉え方の両方ができます。
記号が個別に使用されるたびに別々の存在として捉えられるとき、個々の「A」はトークンと呼ばれます。 いずれのトークンも同じ「A」という文字だと捉えたとき、全体として「A」という記号はタイプと呼ばれます。
四方田犬彦は『漫画原論』で、「二度と同じ顔が描かれることはない。」「同一の顔を際限なく描き続けることができる。」と、キャラクターという記号のタイプ=トークン関係について述べました。記号学の術語は使用していませんが、その方面の専門家である四方田が、前者の「顔」をトークン、後者の「顔」をタイプとして論じているのは間違いないでしょう。
そして伊藤剛は『テヅカ イズ デッド』で、『漫画原論』を引用して「キャラ/キャラクター」概念を説明しています。
記号という用語には「何かを代理することによって記号自体とは別のものを指示するもの」といった説明がしばしばなされます。
この説明は有益ですが、一方で記号という言葉はそれが何を指示するかを離れて、形式的にあつかわれるものという意味でもよく使われます。
記号というものが、あるときには指示対象との結びつきこそを本質として語られ、別のときには指示するものとの結びつきの無さを強調して語られるというのは面白いことです。
さて、私たちは意味や指示対象を持たない記号というものを想像することができます。例えば、新しい文字のようなものを考案した上で、それが指し示す音も意味も与えないとしましょう。それでも、それをある種の記号と捉えることはできます。それを指して、「この記号には意味はない」と言うことができるわけです。
音声や身振り、その他の色々な手段でも同様なことが可能でしょう。
このような「意味のない記号」が成立する条件は、タイプ=トークン関係が成り立っている場合ではないでしょうか。
さらに、そもそもタイプとトークンの関係はどのようにして成立するのかという問題もあるわけですが、これは同一性、あるいは複製可能性といった大きなテーマと重なる問題で、ここでは踏み込みません。(そのための能力も私に不足しています。)
さて、伊藤剛の論じる「キャラクター」とは、それが指示する対象ないし意味を備えているという意味での記号であり、「キャラ」はその指示対象とは切り離されてタイプ=トークン関係だけで成立する概念だと言えます。
個々の図像(トークン)→「キャラ」(タイプ)→「キャラクター」(指示対象を備えた記号)
ただし、伊藤剛の論じる「キャラ」にはタイプ=トークン関係だけでは汲み尽くせない意味合いがあるのも事実で、例えば「人格・のようなもの」と限定されているので器物や風景などはタイプ=トークン関係が成立していても伊藤のいう「キャラ」には該当しないでしょう。伊藤剛の議論はキャラクター論として書かれているのでこれは当然ではありますが。
しかし、タイプとトークンという概念から「キャラ」と「キャラクター」を捉えることでいろいろ見通しがよくなると私は考えています。
※追記
「キャラ」はもちろん描かれた絵なのですが、タイプとしての「キャラ」は具体的な絵ではなく抽象的な存在です。とはいえ、ある「キャラ」を捉えようとすれば、トークン、つまり一点一点の絵に当たるしかないわけです。面白いですね。