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「君の名は。」の感想 其の二

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「君の名は。」の感想 其の二

「君の名は。」の感想 其の一
の続きです。
スポイラーありなので、まだ観ていない方はご注意を。


物語の組み立て方について書こうと思ったのですが、気が変わったので過去の作品との関係について考えてみます。

◆過去の時間SF作品との関係

時間SFでジュブナイルといえば「時をかける少女」ですね。
筒井康隆の小説の結末では、歴史を変えてしまわないために未来人である深町によって主人公の記憶は消されます。その際深町は、記憶を失った主人公にとっては初めて出会う人として再び姿を現すと語ります。主人公は具体的な記憶は失うものの、これから誰かと出会う予感を抱いていることが示されて物語は終わります。

これが大林宣彦監督による映画版では結末が変わっていて、主人公は深町が再会するも、それと気付かずすれ違います。
すれ違った後に二人は振り返るのですが、振り返るタイミングがズレているせいでお互いの視線が合うことがなく、相手が振り返ったことにも気づかず別れていくという演出が印象的でした。

筒井康隆の小説版が「運命の出会い」のSF的表現、というロマンティックなテーマを描いているとすれば、大林宣彦の映画版は初恋の儚さと切なさの隠喩と読めます。
新海監督の「秒速5センチメートル」は大林宣彦版の「時かけ」を強く連想させる結末でしたが、今回の「君の名は。」は筒井康隆版の「時かけ」に回帰しているのでしょう。

「時かけ」のバリエーションは色々あってすべては把握していませんが、有名なところでは細田守監督によるアニメ版があります。
オリジナルの「時かけ」で未来人が現代にやってくる理由は、未来ではすでに失われているラベンダーを採取することです。細田守版では、やはり未来では失われた絵画を見るためとされ、どちらも抑制された"小さな"目的です。それによって未来人にとっての「今」は改善されるのでしょうが、過去の歴史を改変してしまうことは避けようとしています。

その根底には、実際に起こったことを無かったことにするという「都合の良い物語」を成立させてしまっていいのか、という意識があると思います。
また、過去の改変によって結末に至るタイプの作品において、その過程で主人公に身を切るような犠牲を負わせるのも、やはり「都合の良い物語」に陥ることを避けるという同種の意識が背後にあるのでしょう。
その点で「君の名は。」は甘さが残るというか、都合が良すぎるように見えるという批判を呼び込んでしまうところがあるようです。

続いて、新海監督自身の過去の作品との関係も考えてみます。

◆「ほしのこえ」との関係

「ほしのこえ」は新海監督の原点とも言える作品ですが、いわゆるセカイ系を代表する作品の一つとされています。
セカイ系という概念には、必ずしも確立した定義があるわけではないのですが、庵野秀明監督のアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の影響下に生まれた作品で、「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」を持つものとされます。
また、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」という定義も『波状言論 美少女ゲームの臨界点』によって与えられており、その代表の一つとして「ほしのこえ」も挙がっているようです。(「具体的な中間項」とは国家や社会を指すようです。)

しかし「ほしのこえ」という作品が、上で挙げたような特徴を本当に備えているかというと、疑いがあります。
確かに「エヴァ」の影響を受けていることは否めないでしょう。主人公のモノローグが多いという点が「一人語りの激しい」に該当するかもしれません。
しかしながら「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」を持つとまで言えるでしょうか。

「世界っていう言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのはケイタイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた。」というこの作品冒頭のモノローグが、セカイ系の作品における典型的な世界の捉え方だと言われることがあります。
しかし、普通に見れば「ほしのこえ」では、世界=ケイタイの電波が届く場所という主人公の幼稚な世界観は否定され、打ち砕かれています。「私は中学の頃まで…思っていた」というのは即ち今はそうは思っていないということです。

ミカコは国連に選抜された戦闘ロボットのパイロットであり、特殊な存在ではありますが、それでも大勢いるパイロットの一人にすぎず、世界の危機をどうこうできる存在ではありません。
世界を救うか、彼女を救うかという選択もありません。

一方のノボルは、進学・就職というまっとうな社会のルートで努力を重ねて宇宙を目指し、それが実を結びます。これが「彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」でしょうか? 彼には、成長への拒絶や社会のイメージが持てないといった、セカイ系作品の主人公の特徴が当てはまるとは思えません。

ただし「ほしのこえ」にはセカイ系作品のありがちな要素が多く含まれているとは言えます。
例えば、ミカコが中学校を卒業してすぐに戦闘ロボットのパイロットに選ばれて、宇宙人のような存在と宇宙で戦うという設定は普通に考えれば飲み込みにくいところですが、なぜそんな子供が、という疑問への答えは作中にはありません。女の子がロボットに乗って戦う話はよくあるよね、というアニメの世界のお約束に乗っかっているだけです。
また敵となる存在が何だかよくわからない宇宙生物で、人間側はよくわからないまま戦っているという設定もセカイ系的と言えます。

要するに、表面的にはセカイ系っぽく見えるのです。
セカイ系っぽい雰囲気をもった作品がセカイ系であるとするならば、「ほしのこえ」はセカイ系に認定してかまわないでしょう。
地球に取り残されたノボルを、セカイ系的な「無力な少年」のように見た人も少なからずいたかもしれません。(前述のように、その読みは成り立たないとは思いますが。)
それでも、この作品をセカイ系の典型のように語るのは無理があります。セカイ系から出発したかもしれませんが、その枠組みからははみ出した作品です。

なお、この作品にウラシマ効果は関係ありません。
地球上と宇宙船内とで時間の流れる速さが変わるウラシマ効果が生じるのは、宇宙船が亜光速で航行している場合です。
「ほしのこえ」の世界ではワープによる超光速航行が実現しています。ワープで8光年離れた場所まで行っても、地球と時間のズレは生じません。ただ、そこから通信を送ろうとしても、届くのに8年かかるということです。超光速航法は実現していても超光速通信は実現していない設定なので、通信の速度は光速度に制限されるわけです。もしワープ航法が可能な郵便宇宙船が使えればもっと早く連絡が取れますが、技術的には可能でも経済的理由か何かで出来ないのでしょう。

物語の結末ですが、母艦リシテアはどうやら生き残ったようですが、ミカコの生死は不明です。死んだことを思わせる描写はないので生き残ったように思えますが、生き残ったとしてもそれは8年前の出来事です。その後の8年間をどう過ごしたのか、まだ生きているのか、作品からは読み取れません。
もし生きているとしたら、ウラシマ効果はありませんから、ノボルは同じく24歳になったミカコに再会できます。

この結末は「君の名は。」によく似ていますね。
決定的な出来事は男の子側の視点からは何年も前に終わってしまっている、という点もそっくりです。
とはいえ、「君の名は。」では曖昧さのないハッピーエンドにしているので、印象はだいぶ違うものになっています。
なお、8年間の間にミカコの方は心変わりしている可能性もあるわけですが、そうなると話は「秒速5センチメートル」に近づきます。

◆「秒速5センチメートル」との関係

「秒速5センチメートル」もまた時間と距離とに隔てられた少年少女の物語で、結末は大人になってから。一貫してますね。
この作品も「ほしのこえ」に劣らず、誤解を受けている作品です。
すでにいろいろ語られていますが、最後に笑って歩き去ることから言っても、主人公は不幸ではないわけです。しかし、観客には不幸な結末と受け取られてしまう。その原因は、もちろん映画表現の中に含まれています。

第一パートの「桜花抄」では手紙を渡せずに終わり、その後のパートの流れを見ても貴樹と明里が再会してよりを戻すことにならないのは予期できます。
また、第二パートの「コスモナウト」での顔の見えない少女のイメージから読み取れるように、貴樹は明里本人に強く執着しているわけではなく、その思いは心の中で抽象化した形で残っているだけです。
そして第三パートの結末で、踏切の向こうに誰も立っていないのを確認した貴樹は、その残像とも決別して新しい一歩を踏み出す、という流れです。

ところが、そういう自然な読みを強引なまでに捻じ曲げる力が第三パートにはあります。
一つは、山崎まさよしのOne more time, one more chanceです。その歌詞が、映画の解釈に強力に干渉してしまい、貴樹が明里の姿を探しながら街を彷徨っている、そして今までも明里を求め続けてきた、という様に見えてしまうのです。

もう一つが最後の踏切の前の演出です。
踏切に立つ登場人物の前を列車が走り抜ける絵は「ほしのこえ」でも使われていましたが、表現がより洗練されています。
先にも述べましたが、男女がすれ違った後に互いに振り返ったけれど視線は合わない、というのは大林宣彦版「時かけ」からの引用でもあります。
この演出が非常にパワフルであるため、観客は列車が通り過ぎた後に明里の姿があることを期待してしまい、彼女の姿がないことを確認すると強い喪失感を感じることになります。

端的に言うと、演出と物語が食い違っていて、しかも演出の方が物語を圧倒するほどの力を持ってしまっているということです。
面白いことに、この食い違いは映画を単なる失敗作にしているわけではなく、むしろ不思議な魅力を持たせているようです。
こうした歪さも新海監督の資質のうちかもしれません。

「君の名は。」では、瀧が「決定的な出来事はすでに過去に起きてしまっている」ことに気が付く中盤の展開が見事でしたが、この部分のために作品の色々な部分を歪ませてしまっているところが新海監督らしいといえば、らしいところです。

この感想の続きは書けたら書くかもしれません。
今更ですが、セカイ系作品について覚書を書いておきたい気もします。

セカイ系について書きました:
いまさらセカイ系を考える 其の一

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