以下、スポイラーありで思ったことを書きますので、まずご了解ください。
興行的には大ヒット、面白かったという感想も多い一方で、多少の粗もあるという指摘も見受けられます。
個人的な印象を言えば、十分楽しめたというのがまずあって、その上で確かに引っ掛かる部分もあるな、という感じでした。
新海誠作品らしく、背景美術はやはり綺麗。
その上、少年少女の心身の入れ替わり、タイムリープ、急速に失われていく記憶、天体の衝突という、一つだけでも映画が作れるようなSFネタをまとめてブチ込んできたこと。
そして明るいハッピーエンドにしたこと。
このあたりが成功の要因でしょうか。中盤で明かされるツイストが、やはり観客の心を上手く掴んだのは間違いないでしょう。
加えて言うなら、あまり雰囲気が重くならないようにという配慮が功を奏したのかもしれません。
前半、随所に笑いを入れてきているのが過去の作品との違うところ。
そして物語の転換点になるところですが、男の子の方の主人公、瀧が糸守町を探しに出かけるときに、同級生の友人とバイト先の先輩が事情を知らないまま付いてきます。今までの新海作品の流れであれば、一人で出かけたところではないでしょうか。
おそらくこれも話が重くなってくるポイントで、重くなりすぎないための配慮なのでしょう。
以前から、新海監督は隙のない作品を作るタイプというより、いびつだけれど惹かれる作品を作る人と思っていました。「秒速5センチメートル」は好きな作品ですが、やはりいびつなところのある作品でした。
今回の「君の名は。」にもいびつなところがあるのは否めません。
◆詰め込みすぎ疑惑最初に思ったことは、ちょっと詰め込みすぎなのかな、ということです。
そのせいで展開が駆け足になってしまってしまっているのではないかと。
先に述べたようにSF的なネタが取り敢えず四つ(数え方にもよるか?)も投入されている分、それぞれのネタの描写は薄くならざるをえません。
SF的現象の「ルール」を主人公たちが知恵をしぼって解明していく謎解きや、解き明かした「ルール」をうまく利用してドラマ上の問題を解決する、というような展開を期待する向きは、肩透かしを食らうでしょう。
しかし、(やや狭い意味で)SF的作品というより、もっとざっくりしたファンタジー志向の作品だと捉えれば、この点を作品の欠陥とは言えないでしょう。
詰め込みすぎといえば、隕石の落下による町の壊滅という大災害を扱っている点も少し引っかかります。
厳しい視点でみれば、多数の人間が死ぬ災害の描き方として杜撰だという言い方はできるでしょう。
一方で、娯楽映画にそこまで求めることはないという意見もあるかもしれません。ひょっとしたら、隕石落下の「あの絵」こそがやりたかったことかもしれませんしね。不謹慎だろうが何だろうが、この絵が描きたいんだ、と。
詰め込みすぎで描ききれていないと思わせる三点目は、人間関係についてです。
一番大切な瀧と三葉の関係ですが、瀧の恋愛感情がバイト先の奥寺先輩から三葉へと移ったという説明を先輩の台詞で済ませてしまったのはやはり勿体ない。その気持ちの移ろいこそもう少し丁寧に描いてほしかった。
もう一つは三葉と彼女の父親との葛藤。これの結末はどうにも説明不足で宙ぶらりんな気分になります。
「予言を真に受けてもらえない」という状況が必要なだけなら、親子の感情的な葛藤まで設定する必要があったのかな、と思ってしまいます。
おそらく母親絡みの経緯などそれなりの事情があるのでしょうが、語りきれないのに詰め込んでしまった観があります。
◆二人だけの閉じた世界?さらに脚本の弱い箇所と指摘されているものに:
・瀧と三葉の二人が三年のギャップに気付かない点
・お互いにもっと早く連絡を取らない点
・大災害があった糸守という土地を瀧が知らない点
などが不自然であるという指摘が挙がっているようです。
確かにいささか飲み込みにくいところでして、作中で何かフォローがあった方が良かったように思います。
それらとも関連してくるのですが、二人の入れ替わりという状況を、せめて親しい友人だけにでも伝えようという展開がなかったのも引っ掛かるポイントでした。
もちろん、いきなり「入れ替わり」の事実を伝えても信じてもらえないばかりか、頭がヘンになったと思われかねません。信じてもらうための証拠、とまでいかなくともそれなりに説得力のある根拠を探して、示そうとする流れになるでしょう。
そうして自分たちの置かれた状態を客観的に見ていくと、どうしても三年の時差に気付いていまうはずです。演出上、それは避けたいという判断が背後にあったのかもしれません。
「入れ替わり」の秘密を第三者に伝えようとしない、という脚本にすることで、支払わなければならない代償もあります。
すなわち主人公二人が、周囲の人たちに心を開いていないという物語上のニュアンスを帯びてしまってはいないでしょうか。
三葉の友人の勅使河原が、変電所を爆破するというのはずいぶんやり過ぎで違和感を覚えるという意見も見受けられますが、そこにもつながってくることでしょう。
勅使河原というキャラクターが、序盤でオカルト雑誌を持っていることで超自然的な現象を信じるタイプであることは示されていますし、彼が若者らしいフラストレーションを溜め込んでいることも十分に描かれてはいます。しかしそれはあくまで「前提条件」でしかありません。
それらに加えて、実際に「犯行」に踏み切るための駆動力となるものをはっきりさせないと、勅使河原くんはちょっとしたきっかけで暴発する危ない少年、とも見えてしまい、娯楽映画としてはスッキリしないものを抱えることになってしまいます。(オカルト的なものを信じて破壊行動に走るという行為の持つ不穏さもあります。)
主人公たちが、(たとえ信じてもらえなかったとしても)自分たちの心の内を明かさないまま友人を使役していることが、観客の心に小さな引っかかりを生んでいると言えないでしょうか。
にも関わらず、敢えて今の脚本のようになっている理由を推測してみます。
考えられるのは、「二人だけが共有していて周囲には分からない特別な関係」というのが、十代の男女の恋愛の隠喩となっていて、それがゆえに青春映画として多くの人に支持されてもいる、ということでしょう。
同時に「二人だけの閉じた世界」を生んでしまう作品世界の設定の作り方自体に批判的な見かたもあるでしょう。第三者には「わかってもらえない」ことが前提になるような作品世界の作り方には、ある種の危うさが認められます。
主人公の周囲の人物で、「わかってくれる」可能性が示されるのは三葉の祖母と父親だけです。特殊な家に属する特殊な人間だけにしか理解の可能性がない設定、と切って捨てれば否定的な評価になるでしょう。
あるいは若い男女の恋愛の隠喩という解釈を延長して用いるなら、三葉の父は妻との入れ替わり(=若い頃の恋愛の隠喩)を思い出すことで、三葉と瀧を理解することが出来たという解釈が成り立ち、若者と大人の物語として一般化することもできます。(それだけにもう少し具体的に描いてほしかったと思いますが。)
(其の二に続く予定)
※書きました。
「君の名は。」の感想 其の二