まず虚構という言葉について。大雑把に言って、以下のような用法があると思います。
(1) 相手に事実だと思わせることを意図しない作り話。
(2) 相手に事実だと思わせることを意図した作り話。嘘。
(3) 事実を伝えようとしたときでさえ、意識的あるいは無意識的に行われる偏向、情報の歪みの類。
(4) 人間社会の産物である観念的な存在で、自然的物理的存在ではないもの。「国家や法は虚構である」というような例。
ここでは(1)の用法を取り上げますが、さらに限定的に、ある架空の世界を想定してその世界についての叙述であるかのように読めるテクスト、という意味で使うことにします。
すると、創造的な表現のすべてが、ここでの限定的な意味での“虚構”に該当するわけではないことになります。
架空の世界の中の事物を指示対象とする(ように読める)記号がここでいう“虚構”ですから、記号として指示対象を持たない表現や、指示対象が架空世界の事物とは言えない表現は“虚構”ではありません。歌詞などを含まない音楽、抽象的な絵画や立体造形、また建築や陶磁器なども“虚構”ではない表現として挙げられるでしょう。
ほぼすべての漫画は“虚構”に該当すると思われますが、“虚構”ではない漫画(ノンフィクションという意味でなく)も可能なのでしょうか。
コマ割りがされ、「キャラ」が描かれ、台詞などの言葉が添えられていれば形式的には漫画と言ってよいでしょうが、にも関わらず、そこに描かれているある架空世界というものが想定できないような実験的な作品は可能と思います。“虚構”として漫画を読むことに慣れている読者には、「ワケが解らない作品」という印象を与えるでしょうが、紙面に描かれたカタチとコトバの手触りそのものをオブジェか音楽かのように楽しむことが可能でしょう。
“非虚構”の漫画の条件を考えてみましたが、例えば佐々木マキの作品のあるものなどは、この条件に非常に接近していると言えましょう。
さらに考えると、“非虚構”的なもの(これもノンフィクションという意味ではなく)は、要素としてみれば漫画作品の中に混入しているのを見出すことができます。作品世界の在り方を直接示しているのか、カタチとしての美しさや面白さ自体を志向しているのか、漫画表現の“虚構”と“非虚構”の境界はしばしば曖昧になります。
さて、伊藤剛による「キャラクター」の定義は、「『キャラ』の存在感を基盤として、人格を持った『身体』の表象として読むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させるもの 」でした。
「テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させる」という箇所は、ここでの“虚構”概念に相当すると言っていいでしょう。「キャラクター」は“虚構”の存在です。一方で「キャラ」の概念は、その「キャラ」が存在する特定の架空世界を前提としませんから、「キャラ」は“虚構”ではありません。
「キャラクター」は虚構世界という枠組みの中で(その世界の中ではという条件付きで)人間であるとかないとか言うことが可能になります。言い換えると、そのキャラクターが人間として存在するような架空の世界を想定できるという意味で、キャラクターは人間であることができるわけです。現実世界だけを前提にすれば、キャラクターは(なにしろ実在しないのですから)人間ではありません。
それに対して「キャラ」は人間ではありません。「キャラ」を人間と呼ぶ前提となる枠組みが存在しないからです。ある「キャラクター」が異星人やアンドロイドのようなSF的存在や超自然的存在であるなら、その「キャラクター」は生物学的に人間ではありませんが、「キャラ」はその姿がどうあれ存在論的に人間ではないとでもいいましょうか。両者の存在の水準が異なるのがよくわかります。